2016年04月12日
イタリア料理が国内に広まる礎を築いた
功労者の一人、落合務さん。
そんな落合さんにも、もちろん
修業時代があったわけですが、果たして
どのように乗り越えてきたのでしょか?
心のありようがいかに大きな差異となるか。
そのことを落合さんの歩みが
教えてくれています。
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◆ 修業時代に何を感じるか ◆
落合 務(ラ・ベットラ・ダ・オチアイ オーナーシェフ)
×
片岡 護(リストランテ・アルポルト オーナーシェフ)
※『致知』2016年5月号【最新号】
※特集「視座を高める」
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【落合】
僕はもともと勉強が好きで、
大学附属の中学校で
真面目に勉強していたんだけど、
僕を可愛がってくれていた
お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが
亡くなったり、父が3回目の離婚を
するとかしないとかで、
うちの中がガタガタしてきましてね。
多感な時期だったから、
父をちょっと困らせてやりたいと思って
「学校を辞めたい」って言ったら、
逆に肯定されてしまって(笑)。
ちょうどほら、
帝国ホテルの村上信夫さんが
東京オリンピックの総料理長に
決まって話題になっていた頃で、
雑誌なんかに村上さんがコック帽を
かぶった写真がよく載っていたでしょう。
あの姿に憧れてコックを
目指すことにしたわけですよ。
【片岡】
格好よかったですよね。
【落合】
それで、最初に父が探してきてくれた
日本橋の洋食屋さんに入り、
さらに別のお店でもしばらく
働いていたんだけど、自分の夢を
いろいろ話していたら、それなら
ホテルでやらなきゃダメだって言われて、
19歳でホテルニューオータニに入ったわけです。
【片岡】
まだ開業したばかりの頃でしょう。
【落合】
オープンしたのが東京オリンピックが
あった昭和39年で、僕が
入社したのはその2年後でした。
総料理長が有名な小林作太郎さんでね。
最初はもちろん皿洗いからだったけど、
ラッキーなことに人手が足りなかったので、
よそで少しやっていたのを見込まれて、
半年で調理場に移動できたんです。
最初は分からないことばっかりで
いろいろ大変だったけど、あまり
辛かったという印象はないんだなぁ。
若いからどんどん吸収していくし、
いま振り返っても楽しい
思い出ばかりですよ。
【片岡】
そこを辛く感じるか、
楽しく感じるかで将来が
決まるんですよね。
【落合】
僕はわりと機転の利くほうだったから……
※日本にイタリア料理を広める礎を
創ったお二人の歩みは、
そのまま日本における
イタリア料理の歴史を見る思いです。
食の道に懸けたお二人の対談の全容は
本誌でお楽しみください!