2018年01月27日
いまだその人物評は定まっていない最後の将軍・徳川慶喜。
本誌では「大政奉還」などの歴史的決断が下された背景が
資料をもとに明かされています。
宮田 正彦(水戸史学会会長)
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※『致知』2018年2月号
※連載「活機応変」P32
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大政奉還は慶喜公の独自の発想であり、
独断だと思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。
幕府が天下の政治を専断している根拠は朝廷に権限を委任されているからだ、
という認識はむしろ当時の常識でした。
後年の回想によれば、慶喜公は将軍職に就いた時点で、
既に幕府だけでは国家の難局は乗り切れないと見通し、
いつかは大政奉還しなければならない、と考えていました。
問題はいつどのようなタイミングで行うかだったのです。
この慶喜公の大政奉還の決断に対して、
「政権を投げ出した」「自分が権力を握るための政略だ」
などという見方が多くありますが、それは違うと私は考えています。
なぜなら、この時、慶喜公は政治の実権から離れようとはしていないからです。
『大政奉還の上表』の中にも、
「……当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈、朝権一途に出申サズ候テハ、
綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、
広ク天下ノ公議ヲ盡シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力、
共ニ皇国ヲ保護仕リ候得ハ、必ズ海外万国ト並ビ立ツベク候……」
と記されているように、政治から身を引くとは言っていません。
つまり慶喜公は、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、
国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう。
だから、ここは政権を朝廷にお返して、聖断を仰ぎ、
共に心を合わせ力を尽くしましょうと言っているのです。
そして慶喜公の大政奉還の決断の根底にあったのは、
自分が権力を握りたいといった私欲ではなく、20歳の時に伝えられた
「朝廷に向ひて弓引くことあるべくもあらず」という
水戸家の家訓、水戸学の精神だったのだと思います。
事実、明治34(1901)年頃、伊藤博文に
「どのような信条で大政奉還をなさったのでしょうか」
と訊ねられた慶喜公は、「私は水戸の生まれですから、
父の教えに従ったまでですよ」と答えたといいます。