【取材手記】出光佐三が遺した日本人へのメッセージ

~本記事は月刊誌『致知』2026年9月号 特集「めざすものを持つ」に掲載の対談(出光佐三がめざしたもの)の取材手記です~

「人間尊重」「大家族主義」を貫く

『致知』9月号の特集テーマは「めざすものを持つ」。そのトップ対談では、出光興産の創業者・出光佐三翁について、福岡県の小中一貫校「志明館」館長・山口秀範さん、文芸批評家の新保祐司さんに語り合っていただきました。お二人は佐三翁のことをいたく尊敬され、その偉業をそれぞれの立場で伝えられています。

出光佐三とはどのような人物だったのか。最初に佐三翁の人生を簡単に振り返っておきましょう。
佐三翁は明治中期の1885年、福岡県で生まれました。神戸高等商業学校(現・神戸大学)を卒業後、同級生たちから「母校の面汚し」と罵られながら、身を以て商売の現場を体験するために、一丁稚として社員数名の酒井商会で働き始めます。そして満26歳の時に、門司市(現・北九州市)で出光商会を創業。国内だけでなく満州、中華民国、朝鮮、台湾へと販路を拡大。事業の傍ら貴族院議員としても活躍します。

ところが、1945年の敗戦により、佐三翁は国内外のすべての事業を失ってしまいます。大変な逆境の中、農業や漁業、ラジオ修理販売など様々な仕事に取り組みながら、1947年石油業界への復帰を果たすのです。その後、出光興産は大手の石油会社として著しい発展を遂げますが、その原動力となったのが「人間尊重」「大家族主義」という独自の経営方針です。「馘首(解雇)しない」「定年制がない」「出勤簿がない」「労働組合がない」の四無主義を貫いたことはその象徴でしょう。1981年、95歳で逝去するまで、事業はもちろん美術や伝統芸能など日本文化の振興に尽力したことでも知られています。

佐三翁が結んだ日本とイランとの絆

出光佐三翁の人生を辿ると、大経営者という枠には収まりきれない人間的なスケールの大きさが見えてきます。山口さん、新保さんのお話の中から二つのエピソードをこここではご紹介します。

一つには、いわゆる「日章丸事件」と呼ばれるものです。1950年代、イランは自国の石油を国有化する動きを進めました。それまで石油はイギリスの企業によって独占的に管理されていて、イランの動きに強く反発したイギリスは、「イランから石油を買ってはならない」と世界の国々に圧力を掛けます。

〈山口〉
……イラン産の石油の輸出がついに封鎖された時、「どこの国の石油であっても、取り引きは公正でなくてはならない」と唯一声を挙げたのが出光さんでした。そして、1953年、出光のタンカー日章丸2世がイランへと向かいました。いろいろな妨害にめげず、日章丸をイランのアバダン港に着け、満タンの石油を積んで日本に戻ってくるんです。窮乏するイラン国民を救い日本のエネルギー供給を守ったわけです。イランとの取り引きは出光興産の大きな飛躍をもたらしました。

ちょうど日本の戦後の占領政策が解けたすぐの頃で、出光さんのこの決断は戦争に打ちひしがれた当時の日本人、特に若者を勇気づけました。(中略)

〈新保〉
日章丸事件は、出光さんの生き方を象徴した感動的な実話ですからね。

〈山口〉
今年2月、アメリカとイスラエルがイランを攻撃し、これに対抗するためにイランがホルムズ海峡を封鎖していた時、ペルシャ湾内に留まっていた出光のタンカーだけは出ることを許された。これは日章丸事件後、日本とイランの友情が今日まで語り継がれている何よりの証だと思います。

一人も解雇せずに未曽有の危機を乗り切る

もう一つが、日本人が打ちひしがれた敗戦に対する佐三翁の向き合い方です。前述の通り敗戦により、出光商会は国内外のすべての事業を失ってしまいます。本来なら、ここで廃業もあり得たでしょう。しかし、佐三翁は一人の従業員も解雇することなく、この未曽有の危機を乗り切るのです。

〈山口〉
出光さんは敗戦後の最も厳しい時代に、千人ほどいた従業員を誰一人として解雇しませんでしたからね。

〈新保〉
ええ。これは大変画期的なことだと思います。当時、出光さんは60歳。「私はこれで店をしまいます。皆さんこれまでありがとう」のひと言で済ませてもいいはずなのに、決してそうはしなかった。僕の一家も(当時出光で働いていた)父がもし解雇されていたら路頭に迷っていたことでしょう。両親は日本に引き揚げ後、実家のある島根県に住むようになったのですが、現金書留で給料が送られてきていたという話を聞いたことがあります。

〈山口〉
すごいですね。

〈新保〉
後で分かったのですが、出光さんは書画骨董をはじめ、ご自分の財産を処分しながらしばらくは社員に給料を出し続けられていたんです。戦後間もなく従業員に語られた「活眼を開いて眠っておれ(待っておれ)」とのひと言に誰しも心を奮い立たせずにはいられなかったはずですし、実際、かなりの社員は出光さんのこの言葉を信じて、出光が石油業に復活する日をじっと待っていたんです。そして、出光興産は2年後の1947年、見事に石油業界に復帰を果たす。

「愚痴をやめよ」

敗戦時におけるエピソードはそれでけではありません。
山口さんは次のように話します。

〈山口〉
敗戦の2日後、出光さんが従業員を集めて語った「玉音を拝して」と題する訓示は、一人の日本人として魂が震えずにはいられません。「終戦の詔勅」を何度も拝読した後、出光さんは東銀座の本社に集まった約百人の従業員を前に三つのことを話すんです。

一、愚痴をやめよ
二、世界無比の三千年の歴史を見なおせ
三、そして、いまから建設にかかれ

冒頭の「愚痴をやめよ」という言葉に社員の間で動揺が走ったと言われます。「気が触れたか」と心配する役員もいました。日本人が誰しも絶望の真っ只中にあるこの時に、このような言葉は言えるものではありません。

佐三翁がめざしたもの

では、佐三翁が人生でめざしたものは何だったのでしょうか。それは事業の成功や名声といったものを遥かに超えたものでした。新保さんは佐三の卓越した人間性について次のように評しています。

〈新保〉
出光さんは、いわゆる名経営者としてベストテンに入る人物です。けれども、ベストテンの一人に並べられるのには僕は非常に違和感があって、出光さんはある意味別格なんです。思想家、哲学者が事業を手掛けているというのが僕の出光さんに対する見方です。

その出光さんが伝え続けたメッセージがあります。

「日本人にかえれ」

佐三翁はこの言葉にどのような思いを込めたのでしょうか。そこにこそ佐三翁がめざしたものの本質があります。その詳細はぜひ誌面でお読みください。対談を通して、日本人が置き去りにしてきた日本並びに日本人の美質を感じていただけたら幸いです。


出光佐三(いでみつ・さぞう)
明治18年福岡県生まれ。神戸高等商業学校卒業後、酒井商会勤務を経て北九州市で出光商会を創業。昭和15年本店の出光商会に加えて国内、満州、中華民国、朝鮮、台湾における事業を担当する出光興産、満州出光興産、中華出光興産を設立し、社長として統括。昭和22年に出光興産に一本化し、41年会長、47年店主となった。出光興産を一代で民族系大手の石油会社に築き上げると共に「馘首しない」「定年制がない」「出勤簿がない」「労働組合がない」の四無主義を掲げる独自の経営方針を貫いた。古美術の収集家としても知られ、41年出光美術館を設立。昭和56年死去。

山口秀範(やまぐち・ひでのり)
昭和23年福岡県生まれ。早稲田大学卒業後、大成建設に入社。15年にわたる海外勤務の後、平成8年依願退職。翌年国民文化研究会事務局長就任。17年株式会社寺子屋モデル設立。不登校児自立支援を行うNPO教育オンブズマン理事長、福岡中小企業経営者協会会長なども歴任。令和6年北九州市に次世代リーダーの育成を目指す小中一貫校「志明館」を開校。編著に『日本の偉人100人(上・下)』(致知出版社)『名家の家訓』(三笠書房)など。

新保祐司(しんぽ・ゆうじ)
昭和28年宮城県生まれ。東京大学文学部卒業。『内村鑑三』(文春学藝ライブラリー)で新世代の文芸批評家として注目される。文学だけでなく音楽など幅広い批評活動を展開。平成29年度第33回正論大賞を受賞。著書に『明治頌歌 言葉による交響曲』(展転社)『明治の光 内村鑑三』『「海道東征」とは何か』『美か義か』(いずれも藤原書店)など多数。

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