2025年02月19日
~本記事は月刊『致知』2024年1月号掲載記事を一部編集したものです~
好景気の中で降りかかってきた試練
和歌山県有田郡有田川町に本社を構える私ども酒本運送は、2024年で創業60周年、法人化して55周年の節目を迎えました。この間、県の特産品であるウメ、ミカンを中心とした青果や鉄製品、石油製品など様々な地場産業製品を安全、確実、迅速に全国各地に届ける物流業と、お客様の様々なニーズに応じた倉庫業を二つの事業の柱として成長を遂げてきました。
現在の社員数は100名、年商は18億円。約120台のトラックを保有し、青色がトレードマークの車両がきょうも全国を走り回っています。
我が家はもともとミカン農家でした。昭和39年、兄の憲一が知り合いの運送業を手伝うようになったのが創業のきっかけです。44年に法人化して住友金属和歌山工場の構内で運搬の仕事をスタート。好景気を背景に24時間フル回転で目まぐるしく働く日々が続き、クレーンやトレーラーを導入するなど下請けながらも事業は着実に大きくなっていきました。
ところが、設立から12年を経た昭和56年、順風満帆だった当社の経営を揺り動かす大きな出来事が日本を襲います。深刻な鉄鋼不況です。下請けとしての仕事は激減し、それに追い打ちをかけるように社長を務めていた兄が心臓病で急死。さらにその4か月後には、銀行との交渉役を担ってくれていた父までが脳梗塞で亡くなってしまうのです。
33歳の私が急遽社長を継ぐことになったものの、それまでトレーラーの一運転手で、現場しか知らなかった若僧が経営のノウハウを持ち得るはずもありません。足繁く銀行に通うも融資はことごとく断られ、事業に必要な資材すら手に入れられない状態。心を割って相談できる相手もおらず、18人の従業員を抱えながら、ただ途方に暮れるばかりでした。
まず始めたのが、知り合いの経営者を回って頭を下げ、仕事がなくなってしまった部門の従業員たちに仕事を斡旋することでした。とはいっても日雇いのような仕事では家族は養えませんから、もともとの給料との差額分は会社で負担しました。その資金を確保するために2台あったクレーンのうち1台を売却するほど、経営は綱渡り状態だったのです。その頃、近所では「酒本運送はもうすぐ潰れるそうだ」という噂が専らでした。
手痛い経験から生まれたリスクヘッジ
幸いだったのは、翌年になると鉄鋼事業が徐々に不況を脱して当社の経営も息を吹き返すことができたことです。住友金属に加えて地元の大手石油精製工場の運搬の仕事も請け負うようになり、同年に発生した台風でJRの貨物列車がストップした際、当社がトラック便を出動させて救援に当たったことは、地域社会の信用を大きく高めることに繋がりました。
当時、当社の仕事の九割は住友金属からの受注でしたが、私は鉄鋼不況の手痛い経験から一社に頼りすぎるのはリスクが大きいと考えるようになりました。そこで「一お客様一億円まで」と契約の制限を決めて、信頼できるお取引先の開拓に乗り出しました。
大消費地への青果の運搬もその一つです。ただ、特産のミカンの出荷、運搬は10月から翌年2月までの5か月と限定的で、夏場は仕事がありません。そこで私が目をつけたのがやはり地域特産のウメでした。早速、生産者側と交渉し冬場はミカン、夏場はウメという一年を通した運搬のサイクルを確立していきました。
加えて当社に飛躍をもたらす大きな要因となったのが物流業者間のローカルネットです。これは複数の物流業者が契約を結び、繁忙期にトラックが足りない場合などお互いに融通し合う仕組みです。このローカルネットに加入することによって車両の稼働率が高まったばかりではなく、仲間たちの輪は全国へと広まっていったのです。
お客様の要望に応える「運送のデパート」を目指して
物流業と並ぶ当社のもう一つの柱が倉庫業です。そのスタートはふとしたきっかけからでした。
ミカンが豊作の年があり、我が家でも余ったミカンを保管するために畑を潰して、倉庫を建てました。ミカンのシーズンが終わって貸し倉庫にしたところ、申し出が相次ぎ倉庫はすぐにいっぱいになりました。「阪本さん、どこか他にいい倉庫を知りませんか」という問い合わせを何件も受けるようになり、求められるままに物件を探しては喜んでいただいていたのですが、いっそ自分で始めたほうが早かろうと平成18年、倉庫業を正式にスタートさせたのです。いまでは利便性に富んだ多数の倉庫を所有し、ニーズに合わせた最適な倉庫をご提供して好評を博しています。
思えば、私の事業スタイルは最初から目的を立てて邁進するというよりも、お客様の期待に応え続けているうちに目的が定まり、そこに向けて一途に突き進むというものでした。お客様からの要望に対しては決して手を抜くことなく、自分のできる範囲で精いっぱいお応えし、そのことによって信頼を築いていく。これが私の人生と経営を貫くモットーとなっていったのです。
お客様のもとに荷物をお届けする場合、インターネットが普及する前までは現場の状況が確認できないことがありました。そういう時は東京のような遠方でも私自ら足を運んで現場を確認し、社員に指示を出すことも少なくありませんでした。このように現場主義に徹することができるのは、机上ではなく現場でもまれながら経営を学んできた私自身の強みだと思っています。
「お客様に愛され、必要とされる会社になり、必要とされる人間になる」
当社が掲げる経営理念は、そのような私の人生経験や信念から生まれたものです。お客様の要望があれば全国どこへでも、どんな荷物でも配送する「運送業のデパート」の実現こそが私たちにとっての理想なのです。
近年、和歌山県は他の地方同様、人口減が著しく、10年後にはさらに20万人ほど減少すると見られています。地域全体のマーケットが縮小する中で、物流業界にこれから求められるのは小回りが利き、商品をより安く、より早くお届けできるシステムの構築です。半世紀以上にわたって蓄積した当社の経験と技能は必ずや時代のニーズにお応えできることでしょう。
と同時に、和歌山県トラック協会会長を務める私にとっては、業界全体の発展、従業員の社会的地位の向上も重要なテーマです。とりわけ地震など万一の災害の際、連携を取りながら救援物資を迅速に届ける使命と責任は重いものがあります。自社と業界の発展を視野に、これからも命の続く限り前進を続けていく決意です。
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