2025年01月27日
日本を代表する経営学者であり、知識経営の生みの親として世界に知られる野中郁次郎氏が2025年1月25日、89歳で亡くなられました。知識・経験などを共有し、創造的な経営を実践する知識経営は多くの企業で取り入れられました。しかし、氏の青年期は明確な人生の目的を見出せず、勉学に打ち込めない日々を重ねていたといいます。氏はいかにしてその状況を打開したのでしょうか。野中氏のご冥福をお祈りし、弊誌記事より自身の原点となったエピソード、20代に向けたメッセージをご紹介します。(写真撮影/山口結子)
適性を見出せない学生生活を経て
若い頃の私は、明確な目的意識に乏しい人間でした。
東京の墨田区に生まれ、地元の中学校を卒業して進学した都立第三商業高校は、商人を育成する学校でした。実家の洋品店を継いだ兄の勧めで入ったのですが、算盤の試験では初歩の5級に落ち、簿記の点数は100点満点で僅か5点。これではとても卒業できないので、教頭先生の勧めで進学クラスに移り、大学を目指すことにしました。
とはいえ、大学で何をすべきか見当もつきません。文学が好きだったので早稲田大学の仏文科、上智大学の独文科、あとは父から言われた早稲田大学の政治経済学部政治学科と、脈絡もなく願書を出し、得意の英語で点を稼いで運よく合格した早大の政経へ進学しました。
商人には向いていなくとも政治ならば、という思いがありましたが、結局その政治にも興味を持てず、授業の出席日数が不足してゼミにも入れない始末でした。
代わりに精を出したのがサークル活動でした。唯一、英語には興味があったので、イングリッシュ・スピーキング・ソサイエティ(ESS)に入ってアメリカの短編小説を読んだり、自ら立ち上げた英語の本を読むサークルで、仲間と輪読会を開いたりもしました。
神武景気後の逆風下で臨んだ就職活動は、先輩の勧めで受けた朝日新聞社が補欠合格。欠員が出なければ入社できないため、兄の友人が勤める富士電機製造(現・富士電機)も受けることにしました。これは運としか言いようがありませんが、その試験になんと、私がたまたま輪読会で読み込んでいた政治学者、ハロルド・ラスキの理論について述べよという設問があったのです。
私は夢中で勉強の成果を書き込み、晴れて入社を果たすことができました。1959年、24歳のことです。
留学の道を開いてくれた恩人
マーケティングや関連会社の管理を担当し、日本の産業構造や企業のマネジメントやオペレーションに対する理解が深まっていくにつれ、アメリカへ留学して経営学を学びたいという思いが次第に募ってきました。
当時は、マクレガーのX理論・Y理論やリッカートの連結ピンモデル経営学等々、アメリカから最新の経営学が次々と押し寄せていました。一方の我が国は、日本的経営の素晴らしさを概念としてうまく世界に打ち出すことができず、絶えず新しいコンセプトを打ち出してくるアメリカの受け売りに終始している。このままでは日本はまたアメリカに負けてしまう、という危機感もありました。
学費の高い私立の名門校は選択から除外し、州立の一流大学に願書を送ったところ、カリフォルニア大学バークレー校から合格の通知が来ました。当時はいまほど留学試験が厳しくなかったことが幸いしましたが、問題はお金でした。しかし、それも思いがけない助力を得て解決したのです。
一人は、後に富士電機の専務を務められた本社勤労部長の奥住高彦さんでした。アメリカ留学を希望していることを報告すると、直属の部下でもない私に「50万円を無利子で貸すから持って行け」と即断してくださったのです。
もう一人は、三井不動産社長の江戸英雄さんでした。世話好きな江戸さんは、指揮者の小澤征爾さんなど、有望な若者をよくサポートなさっているとのこと。
そこで、同じ三井系の商船三井の乗船料を値引きしてほしいと秘書の方を通じて依頼すると、すぐに「何とかしよう」と返事をいただきました。おかげで私は無事アメリカに渡ることができたのです。1967年、31歳の時でした。
支援をいただいたお二人を通じて、私は出会いの大切さをつくづく実感しました。特に奥住さんは、その後博士課程に進む際も、会社を辞めて学者として生きる決意を固めてからも、バックアップし続けてくださいました。特攻隊の生き残りだった奥住さんは、次代を担う若者の力になりたいという思いを強く抱いておられたようです。
奥住さんに限らず、当時は一人ひとりが敗戦の傷を負った日本を自分が背負っていくんだという気概を持ち、それが時代の空気として充ち満ちていたように思います。それはちょうど維新に心を燃やした幕末の下級武士に似ています。そうした時代の空気に導かれ、私の人生は開けていったのです。
「いまに見ていろ!」
私がお世話になった富士電機という会社は、電機会社では4番手でしたが、1965年に日本初の商用原子力発電所となる東海発電所を建設するなど、トップを走る分野を持ち、株価が一番高い時期もありました。「いまに見ていろ!」というファイティングスピリッツが全社に漲っていたのです。
思えば、私をきょうまで突き動かしてきたのも、この「いまに見ていろ!」という思いでした。
私は小学校3年生の時、戦禍を逃れて家族と共に静岡県の元吉原村(現・富士市)へ疎開しました。3月10日の東京大空襲の日は、東の空が真っ赤に染まるのが、元吉原からも見えました。私たちの実家もその大空襲によって焼失したのです。
終戦間近になると、都心から離れた疎開先もアメリカの空爆を頻繁に受けるようになり、私も学校帰りに命の危険に晒された経験があります。轟音と共に近づいてくるグラマン戦闘機。松の木の陰に隠れて注視していた私は、直感的に危機を察知して傍の畑に飛び移りました。刹那、銃弾を受けた木が炎に包まれ根本から倒れたのです。一瞬目の合った操縦席のパイロットは、私を嘲笑っているように見えました。
パーパスとは他者との関係性の中で生まれてくるもの
戦争という大きな苦難を経験していないいまの日本人は非常に素直ではあるものの、こうした気概に乏しく、国全体としてのエネルギーが弱まっていることを私は危惧しています。
かつての私も、パーパス、即ち明確な目的意識に乏しい若者でした。しかし、会社に入り、現場・現物・現実の中で格闘することで、心の内に眠っていた「いまに見ていろ!」という反骨心を呼び覚ますことができました。私に成功体験を積ませようと様々な課題を与えてくれる上司に、何とか応えようと懸命に努力を重ねる中で、人生に明確な目的意識を持てるようになったと思うのです。
このことから実感するのは、パーパスというのは自分一人で見出すばかりではなく、他者との関係性の中で生まれてくるものでもあるということです。
私の専門である経営学でいう戦略の本質は、ヒューマナイジング・ストラテジーです。絶えず変化する現実の中で、他者と共感し合い、本気で知的格闘をしながら、なすべきことを共にやり抜いていく。人と人との共感をベースに新たな物語を紡ぎ、実践していくことこそが戦略の本質だと私は考えます。
このコロナ禍で、近頃は社会のデジタル化が一層進んでいます。しかし、それはあくまでも手段であり、デジタルをいくら突き詰めても人生の意味や価値は見えてきません。
人の生き方やパーパスというものは、人と人との関係性という極めてアナログ的なものの中から見出していくものであること。いま20代を生きる若い方々には、このことをご理解いただき、豊かな人生を築き上げていただきたいと願っています。
(本記事は月刊『致知』2020年12月号 連載「二十代をどう生きるか」一部抜粋・編集したものです)
◇野中郁次郎(のなか・いくじろう)
昭和10年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。米カリフォルニア大学バークレー校経営大学院博士課程修了。一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授、北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科長、南山大学経営学部教授、防衛大学校教授などを歴任。経営学の立場から組織の知識創造理論を構築し、経営学の新しいパラダイムを世界に発信している。『失敗の本質』(中央公論新社)『知識創造企業』『ワイズカンパニー』(共に東洋経済新報社)など著書、編著書多数。