2020年06月10日
世界で初めて難度V14を制した女性クライマー、尾川とも子さん。競技歴わずか3年でアジアのトップクライマーになった尾川さんはどのようなきっかけでクライミングをはじめ、どのような修練を重ねて前人未到の偉業を成し遂げたのでしょうか。その秘訣に迫ります。
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クライミングとの出逢い
(――クライミングはいつ頃から始めたのですか?)
(尾川)
23歳の時ですから、かなり遅いスタートだったと思います。小さい時は宇宙飛行士になりたくて、そのために理工学部に進学するなどいろいろ努力していたんです。「高い所に登れば宇宙に近づけるのでは?」という理由で富士山に登ったのがきっかけで登ることが好きになり、大学の時に登山部に入部したんです。
(――あくまで宇宙飛行士になりたいという思いからですね。)
(尾川)
ええ。山登りの訓練の一環としてクライミングを習い始めたことが大きな転機になりました。始めて3か月もしないうちに、クライミング部の同級生から半年後の国体に出場するメンバーが足りないから出てほしいと声を掛けられたんです。ちょっと手伝うつもりで了解したんですけど、そこから鬼の猛特訓が始まりました(笑)。休みの日は朝5時に起きて夜の八時まで練習漬け。12キロの荷物を背負って東京・八王子にある高尾山を二往復したこともあります。
その結果、自衛隊や消防団、実業団の人たちも参戦していた国体で準優勝することができたんです。努力が報われることを初めて実感できた瞬間でもありました。
(――努力の甲斐がありましたね。)
(尾川)
同級生から「尾川さんはセンスがある。このまま続けていたらクライミングを背負って立つ人間になれるから頑張りなよ」と背中を押してもらったことでその気になってしまい(笑)、半年後に出場したアジア大会では優勝しました。そこで金メダルを手にした時に、宇宙飛行士や一般企業への就職という選択ではなく、クライミングで食べていける道を模索してみようと心が固まりました。
(――それほどクライミングにのめり込まれたのですね。)
(尾川)
いま思うと、おだてられて調子に乗っていただけでしたね(笑)。あと数年頑張れば、ワールドカップでも表彰台に手が届くのではないかという淡い期待を抱いて、アルバイトを掛け持ちしながら生活費や飛行機代などを捻出し、僅かな時間で練習に打ち込んでいました。
しかし、世界トップクラスの選手たちは、3歳とか幼少期から英才教育を受けてきている。頑張ってもワールドカップの予選すら通過できない自分とのレベルの差に愕然とし、30歳に近づくにつれ限界を感じるようになりました。
自然と一体になる
(――その後はどうされたのですか。)
(尾川)
2008年頃から戦いの舞台を競技クライミングから自然の中で行うロッククライミングに変えました。30歳までに日本人女性が誰も成し遂げていないV12という難易度の高い岩に登ると宣言し、2008年、29歳最後の日に目標を達成できました。
(――見事、成し遂げられた)
(尾川)
競技クライミングは制限時間の中で登り切らなければいけない上に、大会が終われば二度とその課題に登ることができません。また、たとえ登り切れなくても、他の選手と比べて高くまで登れていれば勝つこともあり得てしまう。一方、ロッククライミングの場合、制限時間はありませんが、自分のスキルがないと完登できない。忍耐と根性が非常に求められます。私にはロッククライミングのほうが性に合っていたのか、完登して己に克った達成感を味わった時に、本来のクライミングの楽しさを思い出すことができました。
その後さらなる高みを目指して、冒頭でご紹介したV14のカタルシスに挑戦したんです。
(――挑戦を続ける中で、大変だったことはありますか?)
(尾川)
モチベーションを保つのが大変でした。初めにお話ししたように、たった一手に3年間も集中していたわけですが、長年やっているときょうのチャレンジが何か進歩しているのかさえも分からなくなってくるんです。もしかしたら一生登れないかもしれませんし、常に不安との闘いでした。たとえやめたところで誰にも文句を言われないので、究極の自己満足の世界。やめるも続けるも自分次第というのが一番辛かったですね。
ところが挑戦2年目に舌がんの前段階である前がん病変に罹り、舌が真っ白に硬化してしまって、痛みで話せないし、味も分からないという状態になってしまったのです。前段階なので抗がん剤や放射線治療もできず、舌を切るしかないと言われたんですけど、体を酷使しすぎていたことやストレスなど、それまでの悪習慣を改めることで、奇跡的に完治させることができました。
これは後から知ったことですが、カタルシスという言葉には「自己浄化」という意味が込められているそうです。
(――病気になって自分の過去を振り返ることができたのですね。)
(尾川)
ええ。それから心境の変化もありました。初めはカタルシスが大きなドラゴンのように思えていて、「やっつけてやる!」と意気込んでいたんです。ところが、3年間岩と向き合い自分を見つめる中で、岩と一体になることを自然から教えられました。
伝説の素潜りダイバーと称されたジャック・マイヨールも海と一体化することで素潜りの世界記録を生み出せたと語っていましたが、私も岩に対する気持ちが変わると、不思議なことにドラゴンに見えていた岩がウサギやチューリップのような優しいイメージのものに変わっていきました。
完登できた時は「制覇してやった」という気持ちは一切なくて、「登らせていただいた」という思いが込み上げてきましたね。
(――感謝の気持ちが生まれた。)
(尾川)
ある意味、恋愛とすごく似ている部分があると思うんです。「あいつを落としてやろう」と思っているうちはダメで、「あの人は何が好きかな」と向き合うことで初めて、相手も心を開いてくれることを学びました。
(本記事は『致知』』2020年2月号 特集「心に残る言葉」より一部を抜粋・編集したものです。)
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◇尾川とも子(おがわ・ともこ)
15年Asian X-gamesで優勝し、競技歴わずか3年でアジアのトップクライマーに。20年頃から舞台を自然界の岩場へ移し、同年4月に日本人女性初となる難度V12を達成。24年10月女性では前人未到の難度V14を世界で初めて完登。同年世界で最も活躍したクライマーに送られるGolden Piton賞、26年にはGolden Climbing Shoes賞を受賞。