『致知 』特別企画!社員が語る「致知と私」vol.17

社員の日常

『致知』特別企画 ≪社員が語る「致知と私」Vol.17≫

社員に致知出版社への入社のいきさつ、『致知』への想いを語ってもらう新企画、《社員が語る「致知と私」》。
 
本日は、社長室 篠原隼人を紹介いたします。
ぜひ、ご覧くださいませ。

*  *  *  *

私と『致知』との出逢いは今から約18年前、大学を休学していた20歳の頃でした。

在学中、私は自分の進路を見つめ直したいとの思いから、一年間大学を休み、埼玉の金子美登さんという、『致知』にも一度ご登場された有機農家の下で住込みの農業研修をしていました。

偶然にも金子さんのお父様が、戦前に安岡正篤先生が創設した日本農士学校の一期生であり、その同窓会である「川薪会」の会長を多年に渡って務められた面受の弟子だったご縁で安岡先生の存在を知ることとなり、それ以来、研修での農作業に勤しむ傍ら、夜は安岡先生のご著書を読み漁るという生活を過ごすようになりました。

当時、私が寝起きしていたのは、三畳一間の手作りの小屋で、そこには鍵もなく、誰でも自由に入れたため、私の小屋に安岡先生の本が置かれているのを見た人が「篠原さん、そういうの興味があるなら『致知』って雑誌があるんだが、あれも読むといいよ」と、同期の研修生で普段は寡黙な古武士のような風格の方に勧められました。

その人は元埼玉県庁の職員で、マスコミの誤報により大変な被害を受けた所沢市の環境汚染問題を担当し、課長として陣頭指揮を振るって、全国トップレベルの環境基準を打ち立てた後、定年を前に退職し、有機農家となるべく金子さんの下で研修を始めたという経歴の方でした。

安井さん、というお名前の方でしたが、今も親子二代で『致知』をご愛読くださっています。

結局、その時はスマホもパソコンもなく、どうやって申し込めばいいかも分からず、そういう雑誌があるのか、と知るだけで終わりました。

一年の農業研修を終え、大学に復学した私は、教授の講義そっちのけでひたすら安岡先生の著作を読み続けていました。

安岡先生の説く教えに対する情熱は、日に日に高まり、夏休みには、安岡先生の教えをより深く学びたいとの思いから、埼玉の武蔵嵐山にある安岡正篤記念館へ行き、一泊二日での合宿勉強会に参加、そこで安岡正泰先生や荒井桂先生からご指導をいただきました。

その合宿研修が終わりに差し掛かった頃、半年前に奥様をガンで亡くされたというある経営者の方と話をする機会に恵まれました。

その方に私が深く安岡先生に私淑している旨をお伝えしたところ、自分の妻が生前働いていた会社でいい内容のものがあったのでと、後日直筆のお手紙とともに『致知』200110月号「先師先哲の人間学」に掲載された安岡先生の対談記事のコピーが送られてきました。

それを読んだときの血がたぎるような感覚は未だに忘れられません。

安岡先生の生きた血の温もりのようなものを感じ、今は亡き先生の謦咳に触れることはできなくても、先生の命はこの誌面の中に息づいていると直感し、『致知』を読み始めました。

この記事をお送りくださったのが、『小さな経営論』に描かれた藤尾社長の元秘書で人事教育担当をされていた市村さんのご主人であったことを知ったのは、私が致知出版社に入社してしばらく経ってからのことでした。

以来、私を『致知』に導いてくれたのは一番の恩人は市村さんであり、社長室や人事という立場に私を置いてくれたのも市村さんなのだと思うようになりました。

致知出版社に籍を置かせていただいて12年半が過ぎました。

私は、致知出版社の使命は、安岡先生が目指した「人づくりによる国づくり」の万灯行であり、中條先生や渡部先生が言われた庶民道徳の向上、教育による日本の再興と思っています。

その使命実現のため、原点である私を致知出版社に導いてくれた恩人たちへの感謝を忘れず、不易流行と和魂洋才の精神で努力を重ねて参りたいと思います。

 社長室 篠原隼人


									
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