会社で~社内木鶏会のご紹介~ 社内木鶏会で、我が社はこう変わった

企業プロフィール
株式会社八天堂
代表取締役 森光孝雅 様
社名/株式会社八天堂
事業内容/スイーツパン専門店
創業/1933年
所在地/広島県三原市宮浦3-31-7
社員数/197名
社内木鶏会導入を決めた瞬間
社内木鶏会と出会ったのは今から12年前の事です。
大阪であった第1回社内木鶏全国大会で感動大賞を受賞された日伸電工・赤松社長のスピーチをお聞きして、もらい泣きした時から始まりました。
こんなにも社長の考え方が変わるのか、そして何より社風まで変わって行くのかと…。
感動的な時間はあっと言う間に過ぎ去ったのと同時に、心に強く『我が社も直ぐに社内木鶏会に取り組もう』と決めた瞬間でした。
何故ならば、その時の職場は荒れに荒れていたからです。
余談ですが、後で聞けば奇しくも、広島社内木鶏会会長の桂馬商店・村上社長も同じ様に感動され、同時期に社内木鶏会を始める運びになられたという事も奇遇というほかありません。
創業90年の伝統を受け継いで
八天堂は創業昭和8年、祖父が和菓子屋としてスタートし、父が洋菓子を取り入れ和洋菓子屋と業態変換し、私の代で更にパン業態へと業態変換を繰り返しながら、来年で90年を迎えようとしています。
かっこよく言えば常に変化しながら挑戦している会社ではありますが、変わらなければ生き残れなかった。つまり変わらざるを得なかった訳です。3代目である私はパン修行を経て広島三原へ帰って来たのが平成2年、バブルが弾けて間もない時でした。景気はまだ良く、地域には大手コンビニエンスストアさんが一軒もなく、焼きたてのパン屋さんもほとんどない、恵まれた外部環境下でのパン屋開業となりました。金利7,9%1500万の融資を得て、返済するのに1日最低でも100人。客単価600円は必要だと、とても不安な気持ちで開業を迎えました。当時三原の町で100人来ている店がほとんどなかったからです。しかし、その不安も開店と同時に吹き飛びました。シャッターを開けるや否や多勢のお客様が詰めかけて来て下さったのです。作っても作っても全く間に合わず、棚をパンで埋める事が3年ほどは無かった位でした。返済を心配するどころかお金が貯まって貯まって仕方がないという状態がしばらく続きました。
それもこれもひとえに外部環境がとても良かったし、何せ朝から営業している焼きたてのパン屋もなく、その上、景気が良いと来れば自ずと大繁盛する事は当たり前だったのかも知れません。
オープン当時26歳、夢が大きく本気で日本一のパン屋になると野心の塊のような人間でした。お客様にも見える様に日本一の鉢巻を巻いてパンを作りに夢中になっていました。
借金が返済できるのかという心配も一瞬で吹き飛び、お金が余って仕方ない。そんな中ですから、社員スタッフの皆さんにとても良い職場環境を与える事もできました。当時「日本一の職場環境のパン屋」だと自慢していたのを思い出します。また環境も良いし繁盛している事もあって、多くの気概のあるパン好きな社員が集まって来てくれました。
この時しっかり人間学を学び、日々の経営と真剣に正対していれば倒産寸前まで追い込まれる事は無かったのでしょうが、その時の私と言えば、自分の夢、野心のために後先考えずガムシャラに突っ走って行くのです。
気がついた時には、開業10年で13店舗の焼き立てパン屋を出店していました。
次の14店舗目は私の修行先であり、パン文化の本場である神戸三宮へと決めていました。
三宮店は今までで一番の大型店であり、投資も最大、まさに社運をかけた店舗でした。
露と消えた逆転ホームラン
しかし、これからいよいよ工事が始まると言った矢先、店長候補の彼が「話がある」と冴えない表情で言って来たのです。開口一番「辞めさせて欲しい」私は一瞬彼が何を言っているのか分からない程でした。その後、何度説得しても決して彼は首を縦に振ってはくれませんでした、結局、彼は私の元を去って行きました。その彼の後ろ姿に向かって「もう二度とうちに来るなよ!」と罵声を浴びせました。
それ程、彼を許せなかったのです。彼がいなければ全てが台無しです。何せ他に人が居ないのですから。
結局、三宮店は白紙となり意気消沈しました。起死回生の逆転ホームランは露と消えました。
しかし、今、振り返ると三宮店を目一杯の借金をして出店していたならば、確実に倒産していたと思うので、図らずも彼が救ってくれたのかも知れません。また、彼が辞めた後にも辞めさせて欲しいと複数の店長が言って来たのです。私は彼らを責めました。腹が立って仕方ないのです。「なんで私の気持ちが分からないのか、こんな大変な時に簡単に辞めて行くのかと、しかも責任者たるものが」。
冷静に、今、振り返ると典型的な失敗する人間になって行っていました。
悪い事象は全て周りの責任つまり他責にしてしまう考え方になっているのですから。そして、一度に何人かの店長が辞めたので一気に会社の数字も悪くなります。
遂に銀行から呼び出しがあり、融資担当責任者さんから「追加融資はできない」と、また矢継ぎ早に、「明日午後から時間を空けといてくれ」と。何処に連れて行かれるのか思えば弁護士の先生の所でした。先生から開口一番「ところで社長はパン作れるのか?」私は「パンを作る事しか取り柄がありませんから」と伝えたところ「それならここに民事再生法の書類があるので目を通していて欲しい」と。
『いよいよ会社が潰れるのか』と頭が真っ白になった事を昨日の様に思い出します。
今でも、融資担当者さんと時折お酒を酌み交わしながら、何時も次の様な言葉をもらいます。
「あの時の社長は全く危機感を感じられなかった、このままでは必ず潰す」と。つまり悲壮感・疲労感はあっても危機感が無かったのです。
ここでも藤尾社長からの言葉を思い出します。『名リーダーとは自ら危機中に身を置ける人』だと。
※今では一つ一つの言葉が貴重な行動指針となって生きています。
逆境の中で出逢った『致知』
悪い事はさらに襲いかかって来ます。入社3ヶ月、パンが大好きで一所懸命頑張ってくれていた入社3ヶ月の社員さんとの連絡がつかなくなったのです。暫くしてその社員の親御様から連絡があり「夜の9時に家に来て欲しい」と。その社員さんは本当に良くやってくれていました、誰よりもみんなから慕われていた優しい若者でした。
私がその社員さんの家に着くなり、親御様から厳しい言葉をかけられました。
「社長、あなたはうちの子にどんな事をしているのか分かっているのか、いやうちの子だけではない。お宅の社員みんなだ」と。
私は顔を上げられませんでした。ただただ謝る事しか出来ません。何故なら親御様の言われる通りの劣悪な職場環境下での仕事を強いていたからです。10年経つ間に本当に酷いブラック企業へとなっていっていたのです。親御様からたて続けに「うちの娘は小さい時からパン屋になるのが夢で、その夢を大切に大切に膨らませて、やっとお宅に入って夢を叶える事ができたねと、家族みんなで喜んでいたんだが、どうしてくれる!一瞬でうちの娘の夢を打ち砕いてくれて。もう家から出たくない、出られないと言っている」と。
私は辛くて申し訳なくてただただ謝る事しか出来ませんでした。
考えてみるとその社員だけではないのです、他に多勢の社員が辞めて行き、また辞めてもらいました。
経営には多勢の人に貢献出来ると言ったロマンはあるものの、間違った経営をしてしまえば逆に多くの人を不幸にしてしまう、心より恐ろしいものだと痛感しました。
それだけではありません、業者様にもお客様にも家庭にも地域にも迷惑をかける結果となって行きました。挙句の果てに事故もし(今でも首の調子があまり良くないですが)資金ももうギリギリです。
そしていよいよ、マイナスのスパイラルの中で私自身、自暴自棄となり「もうこの世からいない方がいいのでは」と本気で考える様になって行くのです。そんな時、あれは20年前になりますが、私の師事している方から渡されたのが一冊の「致知」でした。
「この一冊は逆境を乗り越えて行くためのヒントになるから」と。
読み始めた時期を同じくして、宇都宮でパン屋をしている弟から一本の電話が入ったのです。
「兄さん大変らしいな、貯金があるから、これで何とか乗り切ってくれ」と。暫くして彼から手許に2000万あると言って来ました。
私は涙が出て涙が出て仕方なかったです。何故なら家族も子供もおり1店舗でコツコツ貯めた全財産だと直ぐに分かったからです。申し訳なくて謝ろうとしても言葉になりませんでした。
『致知』で気づかされた両親の恩
弟夫婦への感謝は当然ですが、何より気付かされた事があります。親への感謝の気持ちです。
『致知』を読み始めた頃でした。藤尾社長がおっしゃる様に「組織が永続する上で必要な事はナンバーワンとナンバーツーのベクトルが合っているかどうかだ」と。何度も聞いて来た言葉ですが、私は全く出来てなかったのです。
ナンバーワンである会長とナンバーツーである私のベクトルが合ってなかったのです。しかも最悪な事に、私は親を心の何処かで見下げていたのです。親は一店舗で私たち兄弟を育ててくれました。しかもこんな立派な弟と言う人間を。「私ははるかに親に及んでいない」。頭をハンマーで殴られた感覚を今でも覚えています。
『致知』を真剣に読み続ける中で、いかに自分の考え方が間違っていたかを様々な失敗を通して心底気付かされました。そう思うと居ても立っても居られなくなり、両親に今の素直な気持ちを伝えなければと思い、会いに行きました。謝ろうと声を出そうとした瞬間、父親が「孝雅しんどいじゃろうが、死ぬなよ。すまんなすまんな」と先に涙を浮かべながら謝って来たのです。
私は先に謝る事も出来ず、両親の足元で泣き崩れました。涙がこれ以上出ない程泣きました。
そんな私の背中と足を両親が一所懸命摩ってくれているのです。その時同時に、私の冷え切った心が温かくなって行くのを感じたんです。
それまでの私は「親の世話になってない。私が自分で生きて来たんだ」と本気で思っていました。
私は小学2年の時、行方不明になり大変な騒ぎになりましたが、今まで思い出した事もない程ですから酷いものです。「お父さんお母さん本当にごめんなさい、ごめんなさい。こんな息子を許して下さい」と心の叫びとなって胸に突き刺さりました。
このまま人生を諦めてはいけない、何としても生きて恩返し、罪滅ぼしをしていかなければと、強烈なまでの想いに駆られました。そして心底考え方が変わった瞬間でした。
経営理念に込めた思い
本気で考え方が変われば行動が変わるとある様に、今まで生き方を心より反省し、考え方を変え行動が変わって行くのです。
そしてこの時期に弊社の
- 信条『八天堂は社員のために・お品はお客様のために・利益は未来のために』
- 経営理念『良い品・良い人・良い会社つくり』
- 社是『品性資本の三方よし経営』
が明らかになったのです。
まさに『明徳が明らかになった』瞬間です。
そして不思議なもので周りから見ても、私の姿勢は変わったと感じるらしく、様々な人が支え応援してくれる様になっていくのです。
時を同じくして、ある方が「私の地域にはこだわりのパンが無い」と言われました。何かピンと来ました。直ぐにその方の住まいの近くに行ったのです。確かにこだわったパンがその地域で売られてないのです。
所謂『天然酵母、無添加、地産地消』のパンです。
その方は自転車にしか乗れず、近場には小さなスーパーとコンビニエンスストアしかありませんでした。早速、スーパーのパンの担当者さんに「こだわりのパン置いて貰えますか?」と営業したところ、「直ぐにでも置いて欲しい」と言われ、ここぞとばかりに広島県内のスーパーに片っ端からパンを卸していきました。そのお陰で3年足らずの間に水面化に浮上することが出来ました。
こだわった何処にもないパンだったので付加価値を付けることが出来たからです。因みに100円のあんぱんだと、こだわっているので120円〜130円で粗利がとても高く販売できたからです。
周りからは「良く乗り越えた」と声を掛けられましたが、実は既に喜べない状況になっていました。同じようにそれぞれの市・町のパン屋さんが営業に来られ、オセロゲームのようにひっくり返され始めて行っていたのです。つまり付加価値が全く付けられない状況になっていたからです(手作りのパン屋は同じこだわりのパンを作る事が出来るからです)。棚を4段貰っていたのが3段、3段が2段とみるみる減らされていきました。さてどうするか悩みました。このままでは早晩必ず厳しくなると。まだ少し余裕が有る内に再度変わらないと、つまり『業態変換』です。
そしてここで『致知』からの言葉を思い出したのです。「覚悟に勝る決断なし」と。
その教え通り考え抜いた私は『一点集中一品専門店』しか無いと覚悟を決める事が出来ました。
こだわりのくりーむパンはこうして生まれた

また、ここでもう一つ本当に運が良かった事が、地元三原市、中学校の後輩であり、同じ創業昭和8年の和菓子屋、本店も直ぐ近くで税理士も同じであるA社長が「森光さん、このままだと潰れるので弊社には一粒のマスカットと言う美味しい商品があるので、これで勝負する」と一品専門店として東京に飛び出して、A社長はみるみる売上を伸ばしていかれたのです。これに私は大きな刺激と勇気を貰い、また覚悟を決めた瞬間でした。しかし覚悟を決めるとは簡単な事ではありません。
今までお世話になったスーパーの担当者さん、弊社のパンを心待ちにしてくれているお客様を裏切る事になるのですから。一品専門店ですから100種類ものパンをやめていかなければなりません。
一軒一軒頭を下げて回りました。心より謝罪しました。皆様からこっぴどく怒られました。
それは当たり前の事で、今まで取引して貰う為にお願いし、営業して来たのに、3年も経たない内に今度は辞めさせて欲しいと言うのですから。土下座をする位の思いで、誠心誠意謝りました。
しかし、今現在はご迷惑かけたほとんどのスーパーさんに再度お世話になり応援して頂いています。先日、当時の担当者さんがこうおっしゃいました。「あの時社長が誠心誠意謝って来たので応援しているんだ」と。ここでも「致知」で教えられている様に、『逆境時には自暴自棄にならず誠心誠意、目の前の事象に正対する事から活路が見出せる』と。この言葉も貴重な体験として会得する事が出来ました。
そしてそれからと言うもの、朝は朝星、夜は夜星の如く商品開発に没頭しました。併せて捨てる事の大切さも実感しました。選択と集中をやり切ったからこそ、その後1年半かけてクリームパンを作り上げる事が出来ました。販売コンセプトは広島三原から東京・東京から全国・日本から世界へ。世にこの様なクリームパンが無かった事もあり飛ぶように売れていきました。しかし、思いの他売れるもので、製造体制が全く追いつきません。何とか人を手配しながら急場を凌ぐ毎日でした。
そんな状況ですから経営理念の浸透を図る事もできず職場はみるみる荒れて行きました。
「致知」を読んで頭では理解しているものの、実践できてない所謂畳上の水練に他なりません。

売上が増えれば増える程、職場内はガタガタになって行きました。どうしたら良いのか悩む毎日でした。私だけが勉強していても全く現場は良くなりません。社員スタッフみんなが理解し、ベクトルを合わせて進んで行かなければ毎日の様に問題の連続です。根本課題は、正しい基準規範の学びと、学ぶための仕組みだったのです。この様な状況下で出会ったのが社内木鶏会だったのです。そして現在、やり始めて10年以上経ちました。また第4回全国大会にも出場させて頂きました。
またその時、出会ったかずさ万燈会渡邉元貴理事長との良きご縁により、一緒にやっている農福連携事業は来春第二期工事の完成を見ます。何より大事な事は社内木鶏会を続ける事です。その結果により「霧の中を歩めば覚えざるに衣湿る」つまり社風ができて来たのです。時間をかけ職場も劇的に改善されていきました。
社内木鶏会に取り組んだ成果として以下の事を確信しています。
動画で見る『致知』
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