心を空っぽにする修行

円覚寺派管長の横田南嶺さんは
「坐禅は心を空っぽにする修行である」と説き、
坐禅によって、心はどのように変化するかを語られています。
そのお話の一部をご紹介します。



橫田 南嶺(臨済宗円覚寺派管長)
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※『致知』2017年12月号
※連載「禅語に学ぶ」P104

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坐禅をするのは心を空っぽにする修行である。
五蘊を空っぽにする、
眼で外のものを見ない、耳で外の音を聞かないように、
好きだ嫌いだなどと判断をせず、ただ聞こえてくるに任せる。

心でもあれこれ考え事をしないようにと言うのだが、
考えるなとは難しいので、静かに呼吸をしていることに意識を集中する。
鼻から息が出ている、鼻から静かに入っていることだけを見つめる。
それをただ繰り返すと、だんだん心が空っぽになってくる。
 
すると、ちょうど心が恰も鏡のように澄んでくる。
鏡というのは中に映像がない、空であり、空であるからこそ、何でも映る。
静かに坐っていると、逆に何でもきれいに心に映ってくる。



『般若心経』は、『大般若経』六百巻の内容を凝縮したものであると言われるので、
短い経典だが、内容は簡単ではない。

それを、奈良の薬師寺の高田好胤和上は、何回も何回も『般若心経』を講義されて、
その心を、
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、
ひろく、ひろく、もっとひろく、これが般若心経、空の心なり」

と喝破された。

私はまだ小学生の頃、高田和上の講演を拝聴した。
深い感動を覚えて、奈良の薬師寺に
『般若心経』や『薬師経』を写経して納めさせてもらった。

何にかたよらないのだろうか、
自分中心に物を見たり聞いたりして作り上げた認識にかたよらないのである。
自分勝手な思いにこだわらないのである。
そんな自分で作り上げた様々な思いなどにとらわれないのである。

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