新釈古事記伝』第1巻「袋背負いの心」より〜稲羽の白兎(いなばのしろうさぎ)〜

新釈古事記伝』第1巻「袋背負いの心」より〜稲羽の白兎(いなばのしろうさぎ)〜

隠岐の島に、兎が一匹生まれました。
これを稲羽の白兎と申します。

この兎さんは、生まれてから、だんだんと大きくなりました。
そして、ある日、海岸に出て見て、海の広いのに驚きました。
それから、ときおり海岸に出ては、
海辺の気持ちよさを味わっておりました。

ところが、また、ある日の朝、海岸にまいりました。
その日は、雲もなく風もない日本晴れのよい天気でした。

兎さんはたいへんよい気持ちで、
あちこち歩きまわっておりましたが、
ふと海上はるかに東のほうを見てびっくりしました。

兎さんは生まれて初めて、そこに本州を見たのです。

高い山も、大きな川も、広い野原もありそうな本州を見て、
兎さんは、

〈自分たちがいるこの島は、狭い狭い土地で、
どこに行っても兎同士ぶつかってしまう。
 せっかく兎に生まれても、じゅうぶんに飛んだり跳ねたり
 することもできないような小さな島だ。
 できることなら、なんとかして、あの大きな島に渡っていって、
 思うざま飛んだり跳ねたりしたい〉

と思いました。

しかし、今日のように飛行機はないし、船はないし、
泳いで渡ることもできませんので、兎さんは胸のうちに
希望の心のおどるにまかせて、じっと考えておりました。

そのとき、ワニが一匹泳いできました。
ワニも天気のよい日なので、 気持ちよく泳ぎまわっていたのでしょう。

兎さんはそれを見て

「ワニさん、ワニさん、
私の向こうの陸地に連れて行ってくれませんか」

と、頼もうと思いましたが、じっと何かを考えて、
目を白黒させてから、ワニに話しかけました。

「ワニさん、ワニさん、よいお天気ですね。散歩ですか」

ワニは答えました。

「よいお天気ですね。あなたも散歩ですか」

これで、両方の挨拶がすみました。
そのとき、兎さんは言いました。

「ときに、ワニさん。
君が住んでいる海というところは、ずいぶん広いようですが、
その広いところにいる君の一族は、さぞたくさんでしょうね」

すると、ワニはたいそう得意になって答えました。

「はい、そうです。

君は小さい身体で、小さい島にいるから、
何も知らないでしょうが、
僕の住んでいるところは日本海というのですが、
この向こうには太平洋や大西洋というところもあるし、
海はとても広いものです。

だから、その海にいる僕たちワニの仲間は、
ずいぶん多いですよ」

と、こんなことを言ったのでしょう。

そうすると、兎さんはもっともらしい顔をして

「そうでしょうね。
しかし、あなた方、ワニ仲間は、
一年に何度、子どもを生みますか」

ワニは

「よく知らないが、一度らしいね」

と答えました。
すると、兎さんは

「そうですか。
僕の仲間は一年に三〜四回子どもを生むことができます。

そうすると、ワニさん、あなたは先刻、
ワニ仲間は広い海に住んでいるから、
とても多そうなことを言ったけれども、
子どもを生む回数から考えると、小さな身体で、
小さい島にいる私たち兎仲間のほうが、
ずっと多いと思いますがね。

あなたは知らないでしょうが、
この島にはどこに行っても兎仲間で満ち満ちておりますよ」

と、こんなふうに言ったものとみえます。

(……続く)