追悼 渡部昇一先生追悼 渡部昇一先生
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藤尾秀昭(致知出版社社長)

修養の人 渡部昇一先生

藤尾秀昭致知出版社社長

渡部昇一先生が逝かれてひと月が過ぎる。大事な人を亡くしてしまったという思いが日毎につのる。
先生と初めてお会いしたのは昭和五十六年の五月。『致知』の特集「飴と鞭」にご登場いただいたのが最初である。

当時、先生は『知的生活の方法』がベストセラーになり、多分、超がつくご多忙の中にいらっしゃったのだろう。最初の取材依頼は、「自分はこれ以上人脈を広げたくない」と断られてしまった。だが、単に話題の人ということでご登場をお願いしたわけではない。この人のお考えをぜひ読者に伝えたい、という願いがあってこそである。その思いを込めて再度申し込みの手紙を差し上げたところ、先生はこちらの熱意を感じ取ってくださったのだろう、快く取材に応じてくださったのだ。

以来三十六年、先生には公私にわたり親しくご交誼ご指導をいただくことになった。

“知の巨人”とは先生によくつけられる形容詞である。確かに先生は教養の人であった。しかし、それだけではない。先生は同時に修養の人であった、という思いが私には強い。

このことを改めて痛感したのは、この程出版した『渡部昇一の少年日本史』の口述筆記をした昨年のことである。取材の場に現れた先生のお姿に私は絶句した。六月初旬に怪我をされてから食欲を失い一人では歩けなくなり、二人の人に両脇から抱きかかえられて来られたのだ。取材は無理、ととっさに思った。だが、先生は初日は午後一時から六時まで、翌日も朝九時から午後二時半まで、休憩なし、資料も一切見ず、時間と共に熱を帯びて語り続け、仕事を終えられた。その仕事に懸けた気迫に、先生の積まれた修養の結晶を見た、と思った。

『致知』三十周年記念式典の折のことも忘れられない。式典の後、「藤尾さん、ぼくを五十周年の記念講演の講師にしてくれませんか」と申し出を受けたのだ。「いいですね。先生九十七歳、私八十歳、二人でやりましょう」と笑い合ったのだが、それは叶わぬ夢になってしまった。

『致知』を深く愛してくださった先生。『致知』が代表的国民雑誌になることを願い、力になってくださった先生。その先生の願いを実現することを使命とし、五十周年に向けて全力を尽くすこと。これ以外に先生のご恩に報いるものはない、と強く思う。

先生、長きにわたり、ありがとうございました。


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