ところが、それに対して諸君は、一体いかなる力によって、かくは人間として生をうけることができたかという問題について、今日まで考えてみたことがありますか。私の推察にして誤りなくんば、おそらく諸君たちは、この大問題に対して、深く考えた人は少なかろうと思うのです。
かように、諸君らにお尋ねもしないで断定的なことを言うというのは、一面からははなはだ礼を失したこととも思いますが、しかし私は自分自身の過去を顧みても、大体そうではないかと思うのです。と申しますのも私自身が、諸君らくらいの年頃には、一向このような大問題に対して、深く考えたことはなかったからであります。
(中略)
というのも、われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり生まれ甲斐がある日々を送ること以外にはないと思うからです。
ところがそのためには、われわれは何よりもまず、この自分自身というものについて深く知らなければならぬと思います。言い換えれば、そもそもいかなる力によってわれわれは、かく人間としてその生をうけることができたのであるか。私達はまずこの根本問題に対して、改めて深く思いを致さなければならぬと思うのです。
(中略)
ところがお互いわれわれは、それらの動植物のどの一つにもならないで、ここに人間の一人として「生」を与えられたのであって、これに対してどこにその資格があると言えるでしょうか。実際牛馬や犬猫、さらには蛇や蛙やうじ虫などに生まれなかったことに対して、何か当然の理由や資格があるといえるでしょうか。
実際この地上の生物の数は、人間のそれと比べていかに多いか、実に測りがたいことであります。
しかもお互いにそれらのいずれでもなくて、ここに人間としての「生」を与えられたわけですが、しかしそれは何らわが力によらないことに思い及べば、何人もうけがたい人身をうけたことに対して、しみじみと感謝の心が湧き出るはずであります。
しかるに現代の人々は、自分が人心を与えられたことに対して、深い感謝の念を持つ人ははなはだ少ないようであります。
仏教には「人身うけがたし」というような言葉が昔から行われているのです。つまり昔の人たちは、自分が人間として生をこの世にうけたことに対して、衷心から感謝したものであります。
事実それは、この「人身うけがたし」という言葉の持つ響きの中にこもっていると思うのです。
しかるに、自分がこの世へ人間として生まれてきたことに対して、何ら感謝の念がないということは、つまり自らの生活に対する真剣さが薄らいできた何よりの証拠とも言えましょう。というのもわれわれは、自分が自分に与えられている、この根本的な恩恵を当然と思っている間は、それを生かすことはできないからであります。これに反してそれを「辱い」と思い、「元来与えられる資格もないのに与えられた」と思うに至って、初めて真にその意義を生かすことができるでしょう。
自分は人間として生まれるべき何らの功徳も積んでいないのに、今、こうして牛馬や犬猫とならないで、ここに人身として生をうけ得たことの辱さよ!という感慨があってこそ、初めて人生も真に厳粛となるのではないでしょうか。
ですからわれわれも、この「人身うけがたし」という言葉をもって、単に過ぎ去つた昔のことと思ってはならぬでしょう。われわれ現代人は、今日日々の生活に追われて、このように物事を根本的に考えることを怠っていますが、今われわれは改めて、この言葉のもつ深遠な意義に対し敬虔な態度に立ち還って、人生の真の大道を歩み直さねばならぬと思うのです。
そもそもこの世の中のことというものは、大抵のことは多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。しかしながら、この明白な事実に対して、諸君たちは、果たしてどの程度に感じているでしょうか。
すなわち自分のこの命が、今後五十年くらいたてば、永久に消え去って、再び取り返し得ないという事実に対して、諸君たちは、果たしてどれほどの認識と覚悟とを持っていると言えますか。
諸君たちが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、要するに、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。
もちろん諸君らといえども、意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。
だが同時に諸君は、自分もまたこの永遠の法則から免れないものだということを、どこまで深刻に自覚していると言えるでしょうか。
これ私が諸君に向かって「人生二度なし」と言っても、諸君がそれほど深い驚きを発しないゆえんだと思うのです。
要するにこのことは、諸君たちが自分の生命に対して、真に深く思いを致していない何よりの証拠だと言えましょう。
すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。
ところが諸君らは、平生何か自分の好きな物、たとえば菓子とか果物などを貰ったら、それのなくなるのが、いかにも惜しいと思うでしょう。
そして少し食べては、「もうこれだけしかない」とか「もうこれだけになってしまった」などと、惜しみ惜しみ食べることでしょう。
私達は、菓子や果物のように、食べてしまえば、ただそれだけの物に対してさえ、なおかつそれほどの惜しみをかけているのです。
否、うっかりすると、そのために兄弟喧嘩すら起こしかねまじいほどです。
しかるに今この世において、最も惜しまねばならぬ自分の生命に対しては、それほど惜しまないといってよいのです。
おそらく諸君たちの若さでは、今後自分は一体何年くらい生きられるものかなどということは、一度も考えてみたことさえないでしょう。
もちろんそれは、普通の常識的な立場から申せば当然のことであって、諸君らのような若さにある人が、そうしたことを考えないのは、一応いかにも自然であり、また当然のことだと思います。
しかしながら、今自分の生命の意味を考えて、この二度とない人生を、真に意義深く送ろうとするならば、諸君らの生活も、おのずとその趣を異にしてくることでしょう。すべて物事を粗末にせず、その価値を残りなく生かすためには、最初からそのものの全体の相を、見通してかからねばならぬと思うのです。
したがって今この二度とない人生を、できるだけ有意義に送ろうとすれば、われわれとしては何よりもまずこの人生が二度と繰り返し得ないものであり、しかも自分はすでに人生のほぼ三分の一ともいうべき二十年近い歳月を、ほとんど無自覚のうちに過ごしてきたということが、深刻に後悔せられなくてはなるまいと思うのです。同時に今後自分の生きていく生涯が、一体いかなるものでなければならぬかということについても、おおよその見通しがつかねばなるまいと思うのです。
ですからたとえば親が病気になったとか、あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、あるいはまた親が亡くなって、本校を終えることさえ困難になったとか、その外いかなる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けをするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。
ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。
したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、また真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。
(中略)
そこで今この信念に立ちますと、現在の自分にとって、一見ためにならないように見える事柄が起こっても、それは必ずや神が私にとって、それを絶対に必要と思召されるが故に、かくは与え給うたのであると信ずるのであります。
ところが、「神が思召されて—」などと言うと、まだ宗教心を持たれない諸君らには、あるいはぴったりしないかも知れません。
それなら次のように考えたらよいでしょう。すなわち神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一力であり、宇宙に内在している根本的な生命力である。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶわけです。
かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、ここにそのようにわれに対して起きるのである。かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、その一つひとつが、神の思召であるという宗教的な言い現し方をしても、何ら差し支えないわけです。すなわちこれは、道理の上からもはっきりと説けるわけです。
そこで、今私がここで諸君に申そうとしているこの根本信念は、道理そのものとしては、きわめて簡単な事柄であります。すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。
それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に天命を楽しむという境涯です。