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童門冬二氏(作家)

先生の鞄の中の風呂敷包み

童門冬二氏(作家

感覚的人物観が許されるとするなら、私は渡部昇一先生を英文学者とみたことは余りない。むしろ漢学を色濃く加味した日本学の権威だと感じてきた。

『致知』で時折対談させていただいた。その折、先生は大きな鞄の中から風呂敷包みを出された。結び目を解いて中から一冊の和綴じの書物を出された。『論語』だ。先生はパラパラと頁を繰って私に示す。「ごらんなさい」。先生が指さす箇所に色の違う傍線が引いてある。

「この色は祖父、この色は父、そしてこの色は私です」。先生が私に見せた『論語』は、家宝的書物だ。先生はさらにこういわれた。

「傍線を引いた箇所が同じ所もあれば違う所もある。面白いでしょ」。確かに面白い。祖父、父、そして先生。同じ書物を読んでも傍線を引くところが違うというのは、三代にわたる渡部家の『論語』の受けとめ方に、差異があることを示している。先生はそれを大切にされていた。しかもそれを風呂敷で包んで始終持ち歩いておられる所が面白い。

洋式鞄の中の風呂敷包み、その中の『論語』、これが何よりも渡部先生の真髄を示していたと思う。西洋の中の古代中国ではない、西洋よりも中国よりももっと大切な日本なのだ。先生は日本国を愛しておられた。日本人を愛しておられた。その立場で歯に衣着せぬ発言を続けられた。

対談の時よく感じたのは、こっちを見る時の笑顔の端に、キラリと鋭い切先の輝きがあることだ。英国式の知の閃きだ。

私は生者が忘れぬ限り死者も生きていると思っている。先生も同じだ。私の座右の書の一冊である『ドイツ参謀本部』と共に、先生はいつも鞄の中の風呂敷包みを見せて下さる存在なのだ。


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