子供たちを守り抜いたお母さん

東京で中華家庭料理店を展開する八木功さんは
中国で生まれ、戦争や文化大革命といった激動の時代を
乗り越えてこられました。

ここでは、貧しかった幼い頃の思い出の一部をご紹介します。


八木 功(ニーハオ食品会長)
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※『致知』2018年2月号【最新号】
※特集「活機応変」P44

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──八木さんは戦前の中国にお生まれになり、
戦争や文化大革命など激動の時代を生き抜いてこられていますね。

私のお父さんは日露戦争で日本から中国に渡りました。
戦争が終わっても中国に残って商売を続け、
儲けたお金で旅順に食堂を開きました。
その頃、中国人の女性と知り合って結婚し、
一九三四年に長男の私が生まれたんです。

ところが、四二年頃になると、戦争でお米やお酒が配給になり、
売るものがなくなってしまった。
内モンゴルでホテルを経営していたお父さんの友人から
「内モンゴルには食堂もないし、営業してくれないか」と声が掛かり、
お父さんに続いてお母さんと私たち兄弟も行くことになりました。

そこで四年ほど生活したわけですが、戦争が終わる頃になると、
夜、銃声が絶えないんだね。兵士や市民の死体が街の大通りにたくさん転がっている。

お父さんから「ここにいては危ないから、先に旅順に帰りなさい」と言われ、
お母さんは子供たちを連れて一週間かけて旅順に帰りました。
お父さんは長男の私に
「もし自分が死んだり、旅順に帰ることができなくなったりしたら、
あとのことはおまえに頼む。
お母さんを支えて生きていってほしい」
と言って家族を見送ってくれました。



いま考えると、お母さんは本当に偉い。
食べ物もないのに、
十一歳から一歳までの子供四人を連れて満員の汽車を何度も乗り継ぎ、
二千キロもの道程を移動したのだから。
旅順の駅に着いた途端、へたへたとホームに座り込んでしまったお母さんの姿を、
いまもはっきりと覚えておりますね。

──まさに命懸けの旅でしたね。

幸いだったのは旅順の店がそのまま残っていたことです。
内モンゴルを発つ時、お父さんは五人にそれぞれ五万円の貯金通帳を渡してくれました。
五万円はいまのお金に計算すると五千万円くらいの金額でしょうか。
だけど、終戦の間際で銀行に行ってもそのお金が下ろせない。
僅かな生活費だけで生きていく毎日が始まりました。
──戦後の混乱期をどのようにして過ごされましたか。

私たちはお父さんの帰りを待ちました。
待っても待っても待っても何の連絡もこない。
周りの中国の人たちも親切に励ましてくださいましたが、
生活は苦しくなるばかりでしたね。

お母さんは掃除の仕事をしながら、
大切な着物や指輪を市場に行って少しずつ売るんです。
確か一つの指輪がトウモロコシのパン二つと同じ値段でしたね。
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