幕末の志士・吉田松陰の〝闘魂〟に学ぶ——日本のいかに危機を突破するか

いまから約170年前の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖にペリーが率いる4隻のアメリカ艦船が現れました。翌年4月24日(嘉永7年3月27日)、再び下田に来航した艦船に乗り込もうとしたのが吉田松陰です。かの有名な「下田事件」に至った松陰の思いとは……。『吉田松陰 修養訓』(致知出版社刊)の著者で人間環境大学教授の川口雅昭氏にお話しいただきました。

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日本人としての誇りを呼び醒ます

ここ数年、私は日本という国の未来を思い、心から心配になる時があります。 一昔前と比べて日本人全体、特に若者の間に自信のない、元気のない人間が増えているのです。

彼らは自分一人が日々を漫然と、ただ面白くおかしく過ごせればそれでいいと本気で思っています。

しかし、それが人生に真の充実感をもたらすはずはなく、そういう若者が増え続けることは国家にとっても大きなマイナスです。そのことに考えが及ぶ若者が極めて少ないこともまた、私の不安材料の一つに他なりません。

この世相とは対照的に、幕末から明治にかけて、日本にも熱く滾(たぎ)る時代がありました。そこには勇気と気概に溢れた数多くの優れた若者がいました。その代表格が吉田松陰です。

「大義」に生きた闘魂の人

松陰の29年間の人生は、「闘魂」という言葉に象徴されているのではないでしょうか。闘魂と聞くと、私たちは目を血走らせ、闘志を剥き出しにして力と技を競い合う武道家やレスラーなどをイメージします。しかし、松陰の闘魂は、それとは全く趣を異にしています。

松陰は「大義」を前にして命を捨てることすら惜しまない人でした。いささかの私心もなく、国家に殉じる覚悟のできた人でした。それが松陰の闘魂なのです。

その典型は、何を置いても「下田事件」です。松陰は10代の頃から、清国がアヘン戦争で欧米列強に大敗した理由を研究してきました。そして「日本は侍がいる限り、植民地化されることはない」という結論に至りました。

しかし、嘉永7年、アメリカ海軍の砲艦外交に屈した幕府が日米和親条約を結び、譜代の臣であるはずの侍がホッと安堵している様子を目の当たりにした時、松陰は憤懣やるかたない思いに駆られます。

「開国か、鎖国かを問う前に、国家の意志で何も決められない国が属国なのだ。日本はその属国に成り下がってしまったのか。侍連中は一体何をやっているのだ。誰も動かないのなら、俺が国家の純潔を守る以外にない」

そう思った松陰は同志の金子重之輔と二人、弁天島から黒船に向かって小舟を漕ぎ出します。この時、松陰は旗艦ポータハン号に乗り込んでペリーと差し違える覚悟でした。決して密航を企てようとしたわけではないのです。これが下田事件の真相です。

松陰にとっては国家の現状を真剣に憂いた上での、文字どおりやむにやまれぬ決死の行動でした。そこには私心など微塵も感じられません。これほど闘魂に生きた人物が他にいたでしょうか。

「大義」という言葉を教えらずに育ったいまの若者には、松陰という人物はなかなか理解しがたい部分もあるでしょう。しかし、それだけに松陰の人生や言葉は、現代人が気づかない人生のヒントに溢れています。松陰に真に学ぼうという若者が一人でも多く生まれることを私は願ってやみません。


(本記事は月刊『致知』2016年11月号 特集「闘魂」より一部抜粋したものです) 

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◇川口雅昭(かわぐち・まさあき)
昭和28年山口県生まれ。広島大学大学院教育学研究科博士課程前期修了。山口県立高校教諭、山口県史編さん室専門研究員などを経て平成12年より人間環境大学教授。編著に『吉田松陰一日一言』『「孟子」一日一言』。著書に『吉田松陰名語録』『吉田松陰』『吉田松陰 四字熟語遺訓』『吉田松陰に学ぶ 男の磨き方』『吉田松陰 修養訓』(いずれも致知出版社)。

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