茶道裏千家第十五代家元・千玄室さんが説く「歴史」と「伝統」の違い

お茶を道の領域にまで高め、互いの心を和らげて向き合う「和敬清寂」の心を説いた千利休。現代に至るその精神を継ぎ、道を窮め、九十歳をとうに超えてなお世界を歩いてそれを広めている千 玄室(茶道裏千家前家元)さんが、伝統と歴史の違いについて、体験の重みを持って味わい深く語られています。その二つを分けるものは何か、物事を見極める目を持ちたいものです。

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茶室一つから見えてくるもの

〈千〉
中世末(1577)に来日したキリスト教宣教師ジョアン・ロドリゲスは、堺で茶の湯に接し驚いたと、いまもバチカンの図書室にある『日本教会史』に述べている。
 
小さな茶の家、それは市中の山居であり、まるで隠者の家の風を表している。茶の湯は、あらゆる人を温和にさせ身分の上下なく、謹んで椀を主と客で楽しむ。床の飾りに野の花の一輪、そこには自然とも一体と感じられる雰囲気があった。祈りに近い環境であると。
 
多くのバテレンが千利休に茶の湯を習い、キリストの教えを広げた。禅宗を背景とする茶の湯がキリスト教と一体になり、いわば東西文化の交流の基をつくったのである。


利休の茶はあらゆる宗教のカタルシス(受肉)の如きで、茶室の小さな入り口は狭き門であり、その門をくぐるためには階級も何もない裸の人間にならなくてはならない。

武家はすべて帯刀を外し、扇子一本だけの丸腰で茶室に入る。「和」、即ち平和をつくるのがこの茶室であった。

イエスの教え「狭き門を求める者は命の泉に達す」。この狭き門が茶室の入り口「にじり口」であろう。茶の湯は日本の宗教、そして中国の儒教・道教の教えを精神に取り入れ、たくみに日本化した総合文化なのである。
 
歴史と伝統は一体のように考えられるが、歴史は時代時代においてあったあらゆる事象が正しく伝えられるものとして必要なものであり、伝統は人間が生活の上に必要とされるもの、いわゆる生活文化が時とともに
次世代に受け継がれてできてゆくものである。

ツキデウス(古代ギリシャの哲人)が「明日を思うな、いまを考えること」といったが、これは人間の生はいまを大切にし、いまを知ることによって明日があると教える言葉である。確かに伝統は歴史とは異なる重みを持つ。それは生きている人間が様々な伝統的なものを背負って生きているからであろう。


(本記事は月刊『致知』2017年12月号 連載「巻頭の言葉」より一部を抜粋・編集したものです)

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