ダモイ、トーキョウ/私の戦争体験

その半生において、行政、立法、そして司法の三権すべてに
関わってきた相沢英之さん、98歳。
本日は、そんな相沢さんが語る戦争体験にスポットを当てます。

相沢 英之(弁護士)
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※『致知』2018年1月号【最新号】
※連載「生涯現役」P104
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──相沢さんはどちらで終戦を迎えられたのですか?

北朝鮮の咸興です。もっとも終戦から一週間くらいは
ソ連兵を見ることもなく、この先どうなるのかという
不安はありましたけど、わりと平常に近い生活を送っていました。

その後、我われ日本軍は鉄道沿線に駐屯し、
在留邦人が全部引き揚げるまで警備にあたり、
軍人は一番後で引き揚げるという協定が
ソ連軍との間に結ばれたという説明がありました。

10月の終わり頃にはいよいよ内地に帰還できる
という話が流れてきましてね。
興南の港で汚い貨物船にギッシリと詰め込んで乗せられたのですが、
これは何かおかしいぞ、と気づいたのは2日目の夜のことでした。

──どういうことでしょうか。

北斗七星が船の右舷に見えるようになったんです。

日本に向けて走るなら、北斗七星は左舷に見えるはずでしょう。
仲間内ではだんだんと騒ぎが大きくなりましたけど、
ソ連兵は「ダモイ(帰国)、トーキョウ」を繰り返すだけ。

結局、船から降ろされた港はソ連の軍艦が何隻も並んでいるポシェット軍港で、
それから一か月もしないうちに今度は貨物列車に詰め込まれ、
シベリア鉄道に揺られること23日。

ようやく停車したのがキズネルという田舎の駅で、
さらに3メートルもの雪の中を行軍すること4日。
辿り着いたのはエラブガというボルガ河の支流にある
小さな田舎町にあるラーゲル(収容所)でした。



──そんなに遠くまで連行されてしまったと。

こうなると日本に戻れるあては全くなし。
ラーゲルでは年に二、三枚はハガキを日本に送ってもよいことになっていましたが、
私は腹が立つものだから全然出さなかった(笑)。

それにラーゲルにはドイツ軍将校もかなり収容されていたのですが、
何かにつけて威張っているわけですよ。

他にもハンガリーやルーマニアの将校もかなりいましたけど、
彼らは口々に文句を言っていました。

「何だよあいつら、戦争が終わってもまだ威張ってやがる」って(笑)。

でもそこは、一つには戦争で勝ったり負けたりしてきたヨーロッパ諸国と、
負けることに慣れていない日本との差でしょうね。

彼らは戦争に負けても「この野郎、いつか仕返ししてやるぞ」
と思っているわけですが、日本人は生きて辱めを受けるなという考え方ですからね。

結局、ラーゲルでの強制労働や4か月間の独房を含めて抑留は3年に及び、
日本に戻ってきたのは昭和23年8月14日のことでした。

ただ、ソ連兵から日本に戻れることになったと告げられても、
舞鶴の港に実際に上陸するまでは全然信用していませんでしたね。

──また騙されるかもしれないと。

ええ。彼らは嘘つきだった。本当にそうなんです。
だから「舞鶴に向かっている」なんて言われても、
みんなで「騙されるな」って言っていましたからね(笑)。

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